幸福への招待

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不幸の要因、その三

ねたみ

不幸の最も強力な原因の一つは、おそらくねたみである。
ねたみは、人間の情念の中で最も普遍的で根ぶかいものの一つである。
 
子供たちは、おとなたちよりも、ややあけっぴろげであるにすぎない。
 
ねたみは、民主主義の基礎である。
理想主義的な理論は、大きな改革を引き起こすだけの力を持っていない。
正当化する理論はつねに情念のカムフラージュになっている。
 
スキャンダル好きは、一般的な意地悪の一つの表れである。
女性はほかのすべての女性を競争相手と見るのに対し、男性は概して、同業のほかの男性に対してこの感情をいだく。
読者は、ある芸術家のことを、別な芸術家の前でほめるという軽率なことをしたことがあるだろうか?
 
ねたみに対して、どんな治療薬があるだろうか。
 
ねたみは、こどものころの不幸によっていちじるしく助長される、とわたしは考えている。
自分はイシマエルのような世の嫌われ者だと思うようになれば、必然的にひがみっぽく、うらみがましくなる。
 
現実の人生は、決して論理的なものではない。
自分のねたみ深い感情の原因を自覚しただけでも、そういう感情を治す方向に大きく一歩踏み出したことになる。
 
何でも楽しいことが起これば、目いっぱい楽しむべきであって
ねたみは、実は、いくぶんは道徳的であり、いくぶんは知的な悪徳の形の一つであって、その本質は、ものをそれ自体として見るのではなく、他との関係において見ることにある。
 
適切な治療法は、精神を訓練すること、つまり、無益なことは考えない習慣を身につけることである。
なんといっても、幸福ほどうらやましいものが、ほかにあるだろうか。
 
歴史や伝説の中には、いつもあなたより成功した人がいる。
ナポレオンはカエサルをねたみ、カエサルはアレキサンダーをねたみ、アレキサンダーは実在しないヘラクレスをねたんだことだろう。
 
手にはいる楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分よりも幸運だと思っている人たちとの比較をやめるなら、あなたは、ねたみから逃れることができる。
 
 
極端な形では、謙虚が美徳に値するかどうかきわめて疑わしい。
オスのクジャクは、自分の尻尾は世界中で一番りっぱだと思い込んでいる。
もしも、「ぼくの尻尾はあれよりも見事だなんて思っちゃいけないんだ。そいつはうぬぼれってことになるからな。でも、ほんとうにそうなら嬉しいんだがな!畜生、あの鳥はじぶんはりっぱだとあんなに自信たっぷりだ。あいつの羽を何本か抜いてやろうかな。そうすれば、あいつと比べられる心配がなくなる」 
クジャク王国に美しい羽根をした鳥がいたというのは、過去のぼんやりとした思い出になってしまうに違いない。
 
ねたみは、競争と密接な関係がある。私たちは、まったく手が届かないような幸運をうらやんだりしない。
現代では社会的身分が不安定であるし、民主主義も社会主義も、平等主義的な教義をおこなっているので、ねたみの範囲は大きく広がっている。
 
総じて、悪いものは互いにからみ合っている。疲れが実にしばしばねたみの原因になっている。
断然重要なことは、本能を満足させるような生活を確保すること。
仕事上のものと思われるねたみには、実は大部分、性的な原因がある。
 
人間の幸福に必要な要素は、単純である。
 
よい身なりをしたすべての女性をねたみの目で見る女たちは、本能生活において幸福ではないとみる。
この点で、文明は道を踏み迷ったと思われる。
私たちの文明は、激しい憎しみのうちに破壊する危険にさらされている。
 
むかし、人々がねたんだのは、隣人のみであった。
現代文明が作りあげた人間の心情は、友情よりも憎しみに傾きやすい。
心の奥底で―おそらく無意識的に―なぜだか人生の意味を見失ってしまった、他の人々がひとり占めしてしまった、とかんじているからである。
 
わたしたちは、進化の、ある段階に到達しているが、それは最終の段階ではない。急いでこの段階を通り抜けなければならない。
ねたみは、ある意味では、英雄的な苦しみの表れである。
あるいは、よりよい休息の場所へ、あるいはただ死と破滅へ、暗い夜道をやみくもに歩いていく人間の苦しみである。
 
この絶望から抜けでるため、自己を超越することを学び、宇宙の自由を獲得することを学ばなければならない。
 
 

罪の意識

 
伝統的に、罪についての宗教的心理がある。
「良心」ということばはあるが、当人が犯した犯罪を一番後悔するのは、悪事が露見しそうになったときである。
 
罪の意識が特に明瞭になってくるのは、疲れや病気や飲酒その他の原因によって、意識的な意志が弱められたときである。
「悪魔も病気になると、聖者になりたがる」
 
あなたの幼年時代を支配した人たち、彼らが強く賢く見えたのは、あなたが弱くて愚かだったからにほかならない。
あなたがいまだに習慣の力ではらっている尊敬に、はたして彼らが値するかどうか考えてみること。
 
その道徳は、滅亡に瀕したローマ帝国を苦しめた精神の病に由来する病的な要素を含んでいるかもしれないからだ。
罪の意識が強くなったとき、それを掲示だとは考えないで、病気であり、弱さであると考えなければならない。
罪の意識には、どこか卑屈なところ、何か自尊心に欠けたところがある。
また、人を不幸にし、劣等感を抱かせる。
 
自分の殻に閉じこもるほどつまらないことはないし、注意力とエネルギーを外に向けるほど気分を引き立ててくれるものはない。
 
偏りすぎた情熱も、一種の陶酔となる。根の深い病気の徴候である。
どんな種類であれ、陶酔を必要とするような幸福は、いんちきで不満足なものだ。
 

 

 

ラッセルの言葉 ?幸福についてー

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