幸福への招待

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不幸の要因、その二

退屈と興奮

 

中世の村の冬場の単調さを想像してみるがいい。
私たちは、先祖ほど退屈していない。それでいて、もっと退屈を恐れている。
今日の若い女性たちは、自分で働いて生活費をかせいでいる。
彼女らのおばあさんが我慢しなければならなかった「一家団欒のひととき」から逃れているにもかかわらず。
 
働く必要をまぬがれるだけの金のある人々は、まったく退屈のない生活を理想として思い描いている。
そういう人は二十歳のころ、三十歳で人生は終わると考えている。
 
退屈は全面的に悪いものではない。
ひとつは、実を結ばせる退屈であり、もう一つは、人を無気力にする退屈である。
退屈には、多すぎる興奮を避けることと切り離せない要素がある。
一定量の興奮は健康によいが、問題は分量である。
 
退屈に耐える力をある程度もっていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。
最もすぐれた小説は、おしなべて退屈なくだりを含んでいる。
偉人の生涯にしても、ダーウィンは世界一周したあと、その後の生涯をずっと我が家で過ごした。
偉大な事業は、粘り強い仕事なしに達成されるものではない。
例外は、休暇中に肉体的エネルギーを回復するのに役立つような娯楽で、そのもっともよい例は山登りであるかもしれない。  (山登りが大好きです)
 
現代の都市に住む人々が悩んでいる特別な退屈は、彼らが”大地”の生から切り離されていることと密接に結びついている。
おおむね、幸福な生活は、静けさの雰囲気の中に真の喜びが息づいているようだ。
 
疲れ
 
純粋に肉体的な疲れは、過度でなければ、どちらかといえば幸福の原因になりがちである。そういう疲れは、熟睡と旺盛な食欲をもたらし、休日に待ちうる快楽に熱意を添える。
 
現代世界の最先進国では、肉体的な疲れは、大いに減少されている。
しかし、現代生活にあって神経の疲れからのがれることは、たいへんむずかしいことだ。
 
騒音の大部分は、意識的には聞かないようになっているが、騒音を聞くまいとして意識下で努力をするので、ぐったり疲れる。
それと気づかぬうちに疲れを引き起こすものは、知らない人がいつもそばにいること。
 
中には破産の恐れのない大物もいるが、競争相手の策略の裏をかくという努力の果て、確実な成功が訪れたときには神経はすっかり参っているし、心配ぐせがついてしまっているので、心配する必要がなくなっても、その習慣を振り落とすのは容易ではない。
 
世の中にはたくさんの金持ちの息子たちがいるが、父親とそっくりな心配ごとを、自分で作り上げている。賭けはやる、ギャンブルに凝るわで、いよいよ身を固めるころには、幸福を享受することができなくなってしまっている・
 
こういう馬鹿者にすぎない金持ちのことはわきにおいて、食べるためにがむしゃらに働くことで疲れを招いているような人たちの場合を考えてみよう。
疲れは大部分、心配からきている。そして、心配は、よりよい人生観を持ち、精神的な訓練をもう少しやることで避けることができる。
たいていの男女は、思考をコントロールする能力にひどく欠けている。(マインドコントロール)
ある心配ごとについて何も打つべき手がない場合にも、そのことをあれこれ考えるのをやめることができない、ということだ。
 
きちんとした精神とは、ある事柄を四六時中、不十分に考えるのでなくて、考えるべき時に十分に考えるのである。
(それ以外のときは、ほかのことを考えるかそれとも、夜分であれば全然何事も考えない)
 
あるいはやっかいな結論を出さねばならないときには、すべてのデータが集まりしだい、その問題をよくよく考えた上、決断を下すほうがよい。決断を下した以上は、何か新しい事実が出てきた場合を除いて、修正してはならない。
優柔不断ぐらい心身を疲れさせるものはないし、不毛なものもない。
 
悩みの原因になっている事柄がいかにつまらないことかを悟ることで、ずいぶんたくさんの心配ごとを減らすことができる。
 
私は講演の中で、しゃべり方が上手でも下手でも気にならなくなればなるほど、ますます下手にしゃべるのが少なくなるのに気がついた。
成功も、失敗も、あまり大したことではない。
おのれの自我など決して世界の大きな部分ではない、という事実をしれば、ある種の安らぎを見いだすことができるであろう。
 
重要な疲れの種類はつねに情緒的なものである。
情緒的な疲れのやっかいな点は、休息を妨げるということ。
人間疲れれば疲れるほど、仕事をやめることができなくなる。ノイローゼに近づいた徴候の一つは、自分の仕事は恐ろしく重要であって、休暇をとったりすれば、ありとあらゆる惨事を招く、と思いこむことである。
私が医者なら、自分の仕事は重要だとおもっているすべての患者に休暇を指示するだろう。
 
精神の訓練とは、物事を考えるべき時に考える習慣である。
それほど思考を費やさないで一日の仕事を仕上げるのを可能にし、不眠症を治療し、決断する際の効率と知恵を増進する。
 
それと、意識的な思考を無意識の中に植えつけることは可能である、と私は信じている。
無意識の大部分は、かつては非常に意識的な思考であったのに、いまや意識下に埋もれてしまったものから成り立っている。
 
最上の方法は、それについて、ものすごく集中的に―可能な限りの集中力を持って―数時間ないし数日間考え、その期間の終わりに、この仕事を地下で続けよ、と命令することである。何か月たって、この仕事はすでに終わっているのを発見する。
 
何か災難が迫った時には、起こりうる最悪の事態はどんなものであるか、真剣に慎重に考えてみるといい。災難を直視したあとは、これは結局、それほど恐ろしい災難ではあるまい、と考えに足るしっかりとした理由を見つけること。
 
最悪の場合でも、人間に起こりうることは、何一つ宇宙的な重要性を持つものはないからである。
最悪の可能性をじっくりみすえ、
「いや、結局、あれはそう大したことにはなるまい」
の過程を二、三度くりかえす必要があるかもしれない。これは、恐怖を避けるためのもっとも一般的なテクニックの一つである。
 
あらゆる形の恐怖は疲れを生じさせる。
有害な形の恐怖は、何か危険があるのに、私たちがそれと対決するのを嫌がっている場合に生じる。
恐怖が心に忍び込もうとすると、その都度、別のことを考えようとする。
 
あらゆる種類の恐怖は、直視しないことでますます募ってくる。目をそむけようとしている幽霊が一段と怖いものに見えてくる。
恐怖に対処する正しい道は、その恐怖がすっかりなじみのものになるまで考え抜くこと。
あなたが何かをくよくよ考えこみがちになっているならば、それについて一段と多く考えてみることだ。
 
刺激的な快楽は幸福の道ではない。
神経の疲れの最悪の特徴の一つは、人と外界をへだてる一種のスクリーンの働きをすることだ。
ただ二、三の事柄にどっぷりのめりこんで、他のあらゆるものに無関心になる。こういう状態では休むことなどできっこない。
 
突きつめれば、あの<大地>との接触を失ったことに対する、大きな社会問題の周辺にたどり着いたことに気がつくのである。