幸福への招待

幸せを望むすべての方へ言葉の本をお届けします

第一部、不幸の要因

なにが人々を不幸にするのか?
 
不幸な人たちは、不眠症の人たちと同様に、いつもそのことを自慢しています。
もし、幸福になる道を見つけたならば、わざわざ不幸を選ぶ人はまずいないだろう、と私は信じている。
読者は不幸であるよりも幸福であることを望むものと想定しておく。
 
バイロン風の不幸な若者は、ほしいものをいくつか持っていないことこそ、幸福の不可欠な要素であるということを忘れている。
 
救済する道は、過去を懐かしみ、現代を嘆くのでなく、もっと勇気をもって現代的なものの見方を受け入れ、名目上は捨て去ったはずの迷信を、その薄暗いすべての隠れ場所から引き出して直視すること。
とくに、恋愛は、自我の固い殻を打ちくだくことができる。
 
私は言いたい。「ものを書こうとするのをやめて、それより、書かないように努めてみたまえ。世の中へ出ていき、海賊なり、ソビエト・ロシアの労働者なりになってみることだ。身体の要求を満足させることで君のエネルギーが費やされるといった、そういう生活に飛び込んでみることだ」
 
このような生活を何年か送れば、元インテリ青年は、いくらか書くまいとしても、もはや、ものを書かずにはいられなくなっているだろう。(あくまでクルーチ氏が診断する病気にかかった人の話)
 
競争
 
人々が「生存競争」という言葉で意味しているのは、実は、成功のための競争にほかならない。
成功感によって生活がエンジョイしやすくなることは、私も否定はしない。
しかし、成功は幸福のひとつの要素でしかないので、成功を得るために他の要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を支払ったことになる。
 
ただ成功することではなく、成功をもたらしたすぐれた資質が大事なのである。
 
かつてアメリカでは、婦人たちの間で何冊かの本を、読んだふりをすることが流行になっていた。
人生はコンテストであり、競争であり、優勝者のみが尊敬を払われる、こういう考え方は、感性と知性を犠牲にし、かつてのピューリタンのごとく、意思のみを不当に養うという結果をもたらす。
 
彼らは、いたるところで白人のお手本となっている。この状況は、ますますひどくなっていくことと思われる。
 
現代の恐竜たちも、自ら絶滅しつつある。
おのれの人生観のために幸福が感じられなくて、子供をもうける気になれないような人たちは、生物学的に見てすでに命数が尽きている。
人生の主要目的として競争をかかげるのは、せいぜい一、二世代ぐらいしか続くものではない。なぜなら、リラックスすることが不可能になっている。
 
これに対する治療法は、理想の中に、健全で、静かな楽しみの果たす役割を認めることにある。