幸福への招待

幸せを望むすべての方へ言葉の本をお届けします

幸福をもたらすもの その四

・努力とあきらめ

 
中庸(ちゅうよう)というのは、おもしろくない教義である。
中庸を守ることが必要である一つの点は、努力とあきらめとのバランスに関してである。
 
幸福は、熟した果実のようにぽとりと口の中に落ちてくるようなものではない。
 
私は本書を「幸福の獲得」とよんだ。
西欧では、あきらめだけでは幸福への道へのひとつにはならない。
自然な欲望が委縮していない人々はすべて、ある権力を手にすることを正常かつ正当な目標としている。
一人は他人の行動を支配する権力を望み、もう一人は、他人の思想を支配する権力を望み、またある人は、他人の感情を左右する権力を望む。
 
賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。
必要な態度は、人事を尽くして天命を待つ、という態度である。
 
あきらめが格段にやさしいケースは、成功の見通しがあるようなケースだ。何度も言うが
 
心配したり、やきもきしたり、いらいらするのは、なんの役にも立たない感情である。
 
教養ある男女はそれぞれ自画像を持っていて、なんであれこの自画像をスポイルするように思われることが生じると、腹を立てるらしい。
自己欺瞞にささえられているときにしか仕事のできない人たちは、自分の職業を続ける前に、耐えるすべを学んでおくほうがいい。
 
害を与えるぐらいなら、何もしないほうがいい。この世の有益な仕事の半分は、有害な仕事と闘うことから成り立っている。
 
 

 幸福な人

 
 
幸福は、一部は外部の環境に、一部は自分自身に依存している。
不幸な人は、不幸な信条をいだくのに対して、幸福な人は幸福な信条をいだく。
 
たいていの人の幸福には、食と住、健康、愛情、仕事の上の成功、そして仲間から尊敬されることである。中には親になることが絶対必要な人もいる。
なおかつ不幸な人は、何か心理的な不適応に陥っている。
外的な事情がはっきりと不幸ではない場合には、人間は、自分の情熱と興味が内へではなく外へ向けられているかぎり、幸福をつかめるはずである。
 
私たちを自己の殻に閉じ込める情念は、恐怖、ねたみ、罪の意識、自己へのあわれみ、および自画自賛である。私たちの欲望は、自分自身に集中している。人があんなに事実を認めるのをいやがり、あんなに神話の温かい衣にくるまっていたがる理由は、主に恐怖である。
 
神話の衣の温かさに慣れっこになった人は
風の冷たさが格段に身にしみる
 
「幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である」
 
自分の殻に閉じこもってしまうために不幸な人は、自分の不幸を考えつづけているかぎり、依然として自己中心的であり、ために、この悪循環からのがれることはできない。悪循環からのがれたいならば、本物の興味によるほかはない。
 
本当にあなたの興味をかき立てるもののみが、あなたの役に立つのである。
 
必要なのは、自己否定ではなく、興味を外へ向けること。
 
私は、本書を快楽主義者として、言い換えれば、幸福を善と見る人間として書いた。
私たちは、愛する人びとの幸福を願うべきである。しかし、私たち自身の幸福と引き換えであってはならない。
 
すべての不幸は、ある種の分裂あるいは統合の欠如に起因するのである。
 
幸福な人とは、自分の人格が内部で分裂してもいないし、世間と対立してもいない。
そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスぺクタルや、宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。
 
また、自分のあとにくる子孫と自分とは別個の存在だとは感じないので、死を思って悩むこともない。このように、生命の流れと深く本能的に結合しているところに、最も大きな歓喜が見いだされるであろう。
 

 

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)