幸福への招待

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幸福をもたらすもの その三

・仕事
 
余暇を知的につぶすことができることは、文明の最後の産物であって、現在、このレベルに達している人はほとんどいない。仕事をしていれば、休日になったときにそれがずっと楽しいものになる。
たいていの仕事は、成功は収入によって測られる。現在の資本主義社会がつづくかぎり、これは避けがたいこと。
(そのあいだ夫は、妻のしていることをほとんど何ひとつみていないのだ)
 
仕事を面白くする主な要素は、二つある。一つは技術を行使すること、もうひとつは建設である。
並みはずれた技術を身につけた人はだれでも、もうこれ以上は上手になれないというところまで、その技術を行使することを楽しむものである。
 
建設においては、最初の状態はかなりでたらめであるが、最後の状態は一つの目的を具体化している。(破壊においてはちょうどその逆である)しばしば人間は、建設を少しも念頭に置かずに破壊を目的とする活動に従事することがある。自分は新しく建設するために古いものを一掃していると、信じこもうとする。しかし、次にどんなものを建設しようとしているのかと尋ねることによって、その口実の仮面をはぎ取ることができる。
彼らは、通例自分では気づいていないが、憎しみに駆られて行動している。
同時に、重要な建設的な仕事をする機会ほど、憎しみの習慣を治してくれそうなものは、まずほかにはない。
 
荒野をバラのように花開かせた人は、最も明白な形の一つで幸福をエンジョイする。
偉大な芸術を生み出す力は、しばしば気質的な不幸と結びついている。科学者が気質的に不幸であることは、芸術家の場合よりもずっと少ない。
非常に多くの人びとが、才能を独立して発揮する機会が見つからなくて、俗物たちが牛耳っている富裕な法人に余儀なく雇われるはめになり、俗物たちに自ら有害なナンセンスだと思っている記事を書くように強要されることである。
 
食べていくために自ら有害だと信じている目的におのれの技術をひさいでいる、そういう仕事では、真の満足は得られない。
自尊心がなければ、真の幸福はまず不可能である。
自分の仕事を恥じているような人間は、自尊心を持つことは到底できない。
 
目的だけでは、人生を幸福にするのに十分ではない。
 
・私心のない興味
 
不幸や疲れや神経過労の原因のひとつは、自分の生活において実際的な重要性のないものには何事にせよ、興味を持つことができないことである。そうした事柄には、多少の不安と多少の心配の要素が含まれている。
 
重要な決定をする前に、「一晩寝て考えてみる」ことが必要だと感じる人たちは、まぎれもなく正しい。
私心のない興味は、気晴らしとして重要であるだけでなく、釣り合いの感覚を保つのに役立つ。
私たちは、この世にそう長いこといるわけではない。
 
狂信の本質は、望ましいことを一つか二つおぼえていて、他のことはいっさい忘れてしまい、この一つか二つのことを追求するにあたっては、他の種類の害がたまたま生じても大したことじゃない、と考えることである。
予防薬としては、宇宙における人間の生命と位置とを大きく認識することにまさるものはない。
 
現代の高等教育の欠点の一つは、ある種の技術を獲得する訓練にあまりにも傾きすぎてしまったこと。
私は、古い伝統的な宗教の代わりに、若い人たちが過去を生き生きと意識するようにしてやりたい。
 
この上もなく幸福な人生においてさえ、物事がうまくいかないときがある。そういう時期に、心配の原因以外の何かに興味を寄せる能力があれば、測り知れない恩恵になる。
どんなにつまらないことでもいい、何か気晴らしを探すべきであり、ただし、その気晴らしは、それ自体有害なものであったり、人を堕落させるようなものであってはならない。泥酔とか麻薬とかが含まれている。
正しい方法は、思考を麻痺させることではなく、思考を新しいチャンネルに切り替えること、あるいは、現在の不幸から隔ったチャンネルに切り替えることである。
悲しみに満たされてしまったとき、思考の切り替えはむずかしい。できるだけ幸福なときに、ある程度広い興味を養っておく
賢明に幸福を追求する人は、自分の根底をなしている中心的な興味のほかに、いくつかの副次的な興味を持つように心がけるだろう。