幸福への招待

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不幸の要因、その四

被害妄想
 
極端な形では、被害妄想は狂気の一種とされている。
実のところ、この病気は治しにくい。各人の理解によってのみ、治療ができる。
(この病気には、大なり小なり、ほぼすべてのひとがかかっているのだ)
 
被害妄想はいつも、おのれの美点をあまりに誇大視するところに原因がある。
 
私たちが善行をする動機は、自分で思っているほど純粋であることはめったにない。
権力欲というのは油断ならぬものだ。
 
被害妄想の適切な予防薬は、まず、
あなたの動機は、必ずしもあなた自身で思っているほど利他的ではないことを忘れてはいけない。
第二、あなた自身の美点を過大評価してはいけない
第三、あなたが自分自身に寄せているほどの大きな興味をほかの人も寄せてくれるものと期待してはならない。
 
権力欲のほかに、もう一つの動機、虚栄心がある。
理想主義は、単純な動機にいろいろ奇妙な変装をさせる。
それは、最も気高い人々の行動でさえ、九分どおりまで、利己主義的な動機に発している。これは遺憾とするにあたらない。なぜなら、そうでなければ、人類は生き残れないからである。
 
人間、食事が楽しいから食事をするというほうがいいのである。
何か利己主義的な動機なしには、熱意を持つことはむずかしい。
 
ひとつのテストがある。
―あなたがものを書くのは、ある思想や感情を表現したいというやむにやまれぬ衝動を感じるためなのか、それとも、拍手かっさいを浴びたいという欲望に駆られたためなのか?
 
後者のような人は、自分の芸術で拍手かっさいを得られないのであれば、それをあきらめたほうがよい。不幸な生活の要因になる。
 
”あなたの長所はあなたが願っていたほどたいしたものではない”
それを認めるのは、一時、苦痛であるかもしれない。しかし、そこを越えれば、ふたたび幸福な生活が可能になる。
 
他人にあまり多くを期待するな
いつも覚えておくべき重要で、とかく忘れがちな点は、
「彼らは、彼ら自身の角度から、自分のエゴにかかわる人生をみているのであって、あなたの角度から、あなたのエゴにかかわる人生を見ているのではない」ということ。
 
「あいつのふるまいはけしからん」と人々が言うとき、エゴをむき出しにした人間の強欲さに対する自然なエゴイズムの健康な反応にほかならない。
ほかの人はあなたほど親身にあなたのことを考えてはくれない、ということを悟ること。
 
真実がどんなに不愉快なものであっても、きっぱりとそれに直面し、それに慣れ、それに従ってあなたの生活を築きあげるようにしたほうがいい。
 
世評に対するおびえ
 
ほとんどの人は、ともに生活をしている人びとから大筋において肯認されるのでないかぎり、幸福になれない。
 
あるグループ内で暮らしているときは、ほとんどはみだし者であるかもしれないが、別なグループでは、まったく普通の人間として受け入れられる。大部分の不幸は、特に若い人たちの間では、このようにして生じる。(アノミー
 
かつて知り合った人のうちで
私に吐き気を催させなかったのは
ひとりフゼリだった ひとりはトルコ人でユダヤ人だ
では、クリスチャンの友人諸君、ごきげんはいかが   (ブレイク)
 
これほどまでの力を内なる生活において持ち合わせている人は、残念ながら、たくさんはいない。
 
ニューヨークのような大都会に住む知識人たちは、たいてい、気心の合ったグループを見つけることができる。
アメリカのいたるところでは、東西南北、とんでもないところで、孤独な人々に出くわすことがある。
 
世評というものは、世評に無関心な人々よりも、はっきりと世評をこわがっている人びとに対して、つねにいっそう暴虐である。
 
自分の属している集団の慣習としっくりいっていない人たちは、とかく怒りっぽく、不安で、のびやかな陽気さに欠けた人間になりやすい。別な集団に移し変えられたとしたら、性格ががらりと変わるように思われる。
自分の環境とどうもしっくりいかないと思う若い人たちは、可能な場合はいつでも、気心の合った仲間が得られるチャンスのある仕事を選ぶように努めなければならない。そのために収入が相当減るとしてもである。
 
自分の境遇としっくりいかないのは不幸である。
望ましいのは、敵意をできるだけ少なく、無効にする方法を見つけることだ。
この問題は、青年時代に生じる。適切な環境で、適切な職業についたあかつきには、たいていの場合、社会的迫害を受けないですむ。
 
しかし、まったく知られていない殺人がいったいどれほどあったか、だれにもわからない。私たちが聞き知っている天才は、すべて逆境に打ち勝っている。肝心なのは、なんとかして無知の暴力からのがれるだけでなく、恨みをいだかず、エネルギーを減少させずにのがれるということ。若者の道は、あまり険しくすぎてはならない。
 
問題なのは、それが若い人の生きかたであって、年寄りの生き方ではない、ということ。
両親の反対だけでは、その企てを放棄すべき十分な理由にはならない。
専門家の意見は別として、一般に、重大な問題でもささいな問題でも、他人の意見が尊重されすぎているのではないか?
 
わざと世評を無視しても少しも意味がない。それこそ世評をに支配されることにほかならない。
しかし、世評に本当に無関心であることは、一つの力であり、同時に幸福の源泉でもある。
私は、何も人びとはわざと変人になるべきだ、と言ってるのではない。人びとは自然であるべきで、おのれの自発的な趣味に生きるべきだ、と言っているにすぎない。
 
幸福は、同じような趣味と、同じような意見を持った人たちとの交際によって増進される。
この方法により、現在、多くの因習にとらわれない人たち苦しめられている孤独感は、だんだん減っていき、ほとんど皆無になってほしいものである。
 
私たちの生き方が、私たち自身の深い衝動から生まれてくることが、幸福にとって不可欠であるから。
 
世評に対する恐れは、他のすべての恐れと同様に、抑圧的で、成長を妨げるものである。
新聞がだれかを、全然無害な人間をスケイプゴートにしてやろうと決めれば、結果は非常に恐ろしいものになりかねない。
この害悪に対する究極的な治療法は、ただひとつ、一般大衆が一段と寛容になることである。
 
寛容さを増やす最善の方法は、幸福を享受しているがゆえに、仲間の人間に苦痛を与えることを主な楽しみとしていない個人の数をふやすことである。

不幸の要因、その三

ねたみ

不幸の最も強力な原因の一つは、おそらくねたみである。
ねたみは、人間の情念の中で最も普遍的で根ぶかいものの一つである。
 
子供たちは、おとなたちよりも、ややあけっぴろげであるにすぎない。
 
ねたみは、民主主義の基礎である。
理想主義的な理論は、大きな改革を引き起こすだけの力を持っていない。
正当化する理論はつねに情念のカムフラージュになっている。
 
スキャンダル好きは、一般的な意地悪の一つの表れである。
女性はほかのすべての女性を競争相手と見るのに対し、男性は概して、同業のほかの男性に対してこの感情をいだく。
読者は、ある芸術家のことを、別な芸術家の前でほめるという軽率なことをしたことがあるだろうか?
 
ねたみに対して、どんな治療薬があるだろうか。
 
ねたみは、こどものころの不幸によっていちじるしく助長される、とわたしは考えている。
自分はイシマエルのような世の嫌われ者だと思うようになれば、必然的にひがみっぽく、うらみがましくなる。
 
現実の人生は、決して論理的なものではない。
自分のねたみ深い感情の原因を自覚しただけでも、そういう感情を治す方向に大きく一歩踏み出したことになる。
 
何でも楽しいことが起これば、目いっぱい楽しむべきであって
ねたみは、実は、いくぶんは道徳的であり、いくぶんは知的な悪徳の形の一つであって、その本質は、ものをそれ自体として見るのではなく、他との関係において見ることにある。
 
適切な治療法は、精神を訓練すること、つまり、無益なことは考えない習慣を身につけることである。
なんといっても、幸福ほどうらやましいものが、ほかにあるだろうか。
 
歴史や伝説の中には、いつもあなたより成功した人がいる。
ナポレオンはカエサルをねたみ、カエサルはアレキサンダーをねたみ、アレキサンダーは実在しないヘラクレスをねたんだことだろう。
 
手にはいる楽しみをエンジョイし、しなければならない仕事をし、自分よりも幸運だと思っている人たちとの比較をやめるなら、あなたは、ねたみから逃れることができる。
 
 
極端な形では、謙虚が美徳に値するかどうかきわめて疑わしい。
オスのクジャクは、自分の尻尾は世界中で一番りっぱだと思い込んでいる。
もしも、「ぼくの尻尾はあれよりも見事だなんて思っちゃいけないんだ。そいつはうぬぼれってことになるからな。でも、ほんとうにそうなら嬉しいんだがな!畜生、あの鳥はじぶんはりっぱだとあんなに自信たっぷりだ。あいつの羽を何本か抜いてやろうかな。そうすれば、あいつと比べられる心配がなくなる」 
クジャク王国に美しい羽根をした鳥がいたというのは、過去のぼんやりとした思い出になってしまうに違いない。
 
ねたみは、競争と密接な関係がある。私たちは、まったく手が届かないような幸運をうらやんだりしない。
現代では社会的身分が不安定であるし、民主主義も社会主義も、平等主義的な教義をおこなっているので、ねたみの範囲は大きく広がっている。
 
総じて、悪いものは互いにからみ合っている。疲れが実にしばしばねたみの原因になっている。
断然重要なことは、本能を満足させるような生活を確保すること。
仕事上のものと思われるねたみには、実は大部分、性的な原因がある。
 
人間の幸福に必要な要素は、単純である。
 
よい身なりをしたすべての女性をねたみの目で見る女たちは、本能生活において幸福ではないとみる。
この点で、文明は道を踏み迷ったと思われる。
私たちの文明は、激しい憎しみのうちに破壊する危険にさらされている。
 
むかし、人々がねたんだのは、隣人のみであった。
現代文明が作りあげた人間の心情は、友情よりも憎しみに傾きやすい。
心の奥底で―おそらく無意識的に―なぜだか人生の意味を見失ってしまった、他の人々がひとり占めしてしまった、とかんじているからである。
 
わたしたちは、進化の、ある段階に到達しているが、それは最終の段階ではない。急いでこの段階を通り抜けなければならない。
ねたみは、ある意味では、英雄的な苦しみの表れである。
あるいは、よりよい休息の場所へ、あるいはただ死と破滅へ、暗い夜道をやみくもに歩いていく人間の苦しみである。
 
この絶望から抜けでるため、自己を超越することを学び、宇宙の自由を獲得することを学ばなければならない。
 
 

罪の意識

 
伝統的に、罪についての宗教的心理がある。
「良心」ということばはあるが、当人が犯した犯罪を一番後悔するのは、悪事が露見しそうになったときである。
 
罪の意識が特に明瞭になってくるのは、疲れや病気や飲酒その他の原因によって、意識的な意志が弱められたときである。
「悪魔も病気になると、聖者になりたがる」
 
あなたの幼年時代を支配した人たち、彼らが強く賢く見えたのは、あなたが弱くて愚かだったからにほかならない。
あなたがいまだに習慣の力ではらっている尊敬に、はたして彼らが値するかどうか考えてみること。
 
その道徳は、滅亡に瀕したローマ帝国を苦しめた精神の病に由来する病的な要素を含んでいるかもしれないからだ。
罪の意識が強くなったとき、それを掲示だとは考えないで、病気であり、弱さであると考えなければならない。
罪の意識には、どこか卑屈なところ、何か自尊心に欠けたところがある。
また、人を不幸にし、劣等感を抱かせる。
 
自分の殻に閉じこもるほどつまらないことはないし、注意力とエネルギーを外に向けるほど気分を引き立ててくれるものはない。
 
偏りすぎた情熱も、一種の陶酔となる。根の深い病気の徴候である。
どんな種類であれ、陶酔を必要とするような幸福は、いんちきで不満足なものだ。
 

 

 

ラッセルの言葉 ?幸福についてー

ラッセルの言葉 ?幸福についてー

 

 

不幸の要因、その二

退屈と興奮

 

中世の村の冬場の単調さを想像してみるがいい。
私たちは、先祖ほど退屈していない。それでいて、もっと退屈を恐れている。
今日の若い女性たちは、自分で働いて生活費をかせいでいる。
彼女らのおばあさんが我慢しなければならなかった「一家団欒のひととき」から逃れているにもかかわらず。
 
働く必要をまぬがれるだけの金のある人々は、まったく退屈のない生活を理想として思い描いている。
そういう人は二十歳のころ、三十歳で人生は終わると考えている。
 
退屈は全面的に悪いものではない。
ひとつは、実を結ばせる退屈であり、もう一つは、人を無気力にする退屈である。
退屈には、多すぎる興奮を避けることと切り離せない要素がある。
一定量の興奮は健康によいが、問題は分量である。
 
退屈に耐える力をある程度もっていることは、幸福な生活にとって不可欠であり、若い人たちに教えるべき事柄の一つである。
最もすぐれた小説は、おしなべて退屈なくだりを含んでいる。
偉人の生涯にしても、ダーウィンは世界一周したあと、その後の生涯をずっと我が家で過ごした。
偉大な事業は、粘り強い仕事なしに達成されるものではない。
例外は、休暇中に肉体的エネルギーを回復するのに役立つような娯楽で、そのもっともよい例は山登りであるかもしれない。  (山登りが大好きです)
 
現代の都市に住む人々が悩んでいる特別な退屈は、彼らが”大地”の生から切り離されていることと密接に結びついている。
おおむね、幸福な生活は、静けさの雰囲気の中に真の喜びが息づいているようだ。
 
疲れ
 
純粋に肉体的な疲れは、過度でなければ、どちらかといえば幸福の原因になりがちである。そういう疲れは、熟睡と旺盛な食欲をもたらし、休日に待ちうる快楽に熱意を添える。
 
現代世界の最先進国では、肉体的な疲れは、大いに減少されている。
しかし、現代生活にあって神経の疲れからのがれることは、たいへんむずかしいことだ。
 
騒音の大部分は、意識的には聞かないようになっているが、騒音を聞くまいとして意識下で努力をするので、ぐったり疲れる。
それと気づかぬうちに疲れを引き起こすものは、知らない人がいつもそばにいること。
 
中には破産の恐れのない大物もいるが、競争相手の策略の裏をかくという努力の果て、確実な成功が訪れたときには神経はすっかり参っているし、心配ぐせがついてしまっているので、心配する必要がなくなっても、その習慣を振り落とすのは容易ではない。
 
世の中にはたくさんの金持ちの息子たちがいるが、父親とそっくりな心配ごとを、自分で作り上げている。賭けはやる、ギャンブルに凝るわで、いよいよ身を固めるころには、幸福を享受することができなくなってしまっている・
 
こういう馬鹿者にすぎない金持ちのことはわきにおいて、食べるためにがむしゃらに働くことで疲れを招いているような人たちの場合を考えてみよう。
疲れは大部分、心配からきている。そして、心配は、よりよい人生観を持ち、精神的な訓練をもう少しやることで避けることができる。
たいていの男女は、思考をコントロールする能力にひどく欠けている。(マインドコントロール)
ある心配ごとについて何も打つべき手がない場合にも、そのことをあれこれ考えるのをやめることができない、ということだ。
 
きちんとした精神とは、ある事柄を四六時中、不十分に考えるのでなくて、考えるべき時に十分に考えるのである。
(それ以外のときは、ほかのことを考えるかそれとも、夜分であれば全然何事も考えない)
 
あるいはやっかいな結論を出さねばならないときには、すべてのデータが集まりしだい、その問題をよくよく考えた上、決断を下すほうがよい。決断を下した以上は、何か新しい事実が出てきた場合を除いて、修正してはならない。
優柔不断ぐらい心身を疲れさせるものはないし、不毛なものもない。
 
悩みの原因になっている事柄がいかにつまらないことかを悟ることで、ずいぶんたくさんの心配ごとを減らすことができる。
 
私は講演の中で、しゃべり方が上手でも下手でも気にならなくなればなるほど、ますます下手にしゃべるのが少なくなるのに気がついた。
成功も、失敗も、あまり大したことではない。
おのれの自我など決して世界の大きな部分ではない、という事実をしれば、ある種の安らぎを見いだすことができるであろう。
 
重要な疲れの種類はつねに情緒的なものである。
情緒的な疲れのやっかいな点は、休息を妨げるということ。
人間疲れれば疲れるほど、仕事をやめることができなくなる。ノイローゼに近づいた徴候の一つは、自分の仕事は恐ろしく重要であって、休暇をとったりすれば、ありとあらゆる惨事を招く、と思いこむことである。
私が医者なら、自分の仕事は重要だとおもっているすべての患者に休暇を指示するだろう。
 
精神の訓練とは、物事を考えるべき時に考える習慣である。
それほど思考を費やさないで一日の仕事を仕上げるのを可能にし、不眠症を治療し、決断する際の効率と知恵を増進する。
 
それと、意識的な思考を無意識の中に植えつけることは可能である、と私は信じている。
無意識の大部分は、かつては非常に意識的な思考であったのに、いまや意識下に埋もれてしまったものから成り立っている。
 
最上の方法は、それについて、ものすごく集中的に―可能な限りの集中力を持って―数時間ないし数日間考え、その期間の終わりに、この仕事を地下で続けよ、と命令することである。何か月たって、この仕事はすでに終わっているのを発見する。
 
何か災難が迫った時には、起こりうる最悪の事態はどんなものであるか、真剣に慎重に考えてみるといい。災難を直視したあとは、これは結局、それほど恐ろしい災難ではあるまい、と考えに足るしっかりとした理由を見つけること。
 
最悪の場合でも、人間に起こりうることは、何一つ宇宙的な重要性を持つものはないからである。
最悪の可能性をじっくりみすえ、
「いや、結局、あれはそう大したことにはなるまい」
の過程を二、三度くりかえす必要があるかもしれない。これは、恐怖を避けるためのもっとも一般的なテクニックの一つである。
 
あらゆる形の恐怖は疲れを生じさせる。
有害な形の恐怖は、何か危険があるのに、私たちがそれと対決するのを嫌がっている場合に生じる。
恐怖が心に忍び込もうとすると、その都度、別のことを考えようとする。
 
あらゆる種類の恐怖は、直視しないことでますます募ってくる。目をそむけようとしている幽霊が一段と怖いものに見えてくる。
恐怖に対処する正しい道は、その恐怖がすっかりなじみのものになるまで考え抜くこと。
あなたが何かをくよくよ考えこみがちになっているならば、それについて一段と多く考えてみることだ。
 
刺激的な快楽は幸福の道ではない。
神経の疲れの最悪の特徴の一つは、人と外界をへだてる一種のスクリーンの働きをすることだ。
ただ二、三の事柄にどっぷりのめりこんで、他のあらゆるものに無関心になる。こういう状態では休むことなどできっこない。
 
突きつめれば、あの<大地>との接触を失ったことに対する、大きな社会問題の周辺にたどり着いたことに気がつくのである。

第一部、不幸の要因

なにが人々を不幸にするのか?
 
不幸な人たちは、不眠症の人たちと同様に、いつもそのことを自慢しています。
もし、幸福になる道を見つけたならば、わざわざ不幸を選ぶ人はまずいないだろう、と私は信じている。
読者は不幸であるよりも幸福であることを望むものと想定しておく。
 
バイロン風の不幸な若者は、ほしいものをいくつか持っていないことこそ、幸福の不可欠な要素であるということを忘れている。
 
救済する道は、過去を懐かしみ、現代を嘆くのでなく、もっと勇気をもって現代的なものの見方を受け入れ、名目上は捨て去ったはずの迷信を、その薄暗いすべての隠れ場所から引き出して直視すること。
とくに、恋愛は、自我の固い殻を打ちくだくことができる。
 
私は言いたい。「ものを書こうとするのをやめて、それより、書かないように努めてみたまえ。世の中へ出ていき、海賊なり、ソビエト・ロシアの労働者なりになってみることだ。身体の要求を満足させることで君のエネルギーが費やされるといった、そういう生活に飛び込んでみることだ」
 
このような生活を何年か送れば、元インテリ青年は、いくらか書くまいとしても、もはや、ものを書かずにはいられなくなっているだろう。(あくまでクルーチ氏が診断する病気にかかった人の話)
 
競争
 
人々が「生存競争」という言葉で意味しているのは、実は、成功のための競争にほかならない。
成功感によって生活がエンジョイしやすくなることは、私も否定はしない。
しかし、成功は幸福のひとつの要素でしかないので、成功を得るために他の要素がすべて犠牲にされたとすれば、あまりにも高い代価を支払ったことになる。
 
ただ成功することではなく、成功をもたらしたすぐれた資質が大事なのである。
 
かつてアメリカでは、婦人たちの間で何冊かの本を、読んだふりをすることが流行になっていた。
人生はコンテストであり、競争であり、優勝者のみが尊敬を払われる、こういう考え方は、感性と知性を犠牲にし、かつてのピューリタンのごとく、意思のみを不当に養うという結果をもたらす。
 
彼らは、いたるところで白人のお手本となっている。この状況は、ますますひどくなっていくことと思われる。
 
現代の恐竜たちも、自ら絶滅しつつある。
おのれの人生観のために幸福が感じられなくて、子供をもうける気になれないような人たちは、生物学的に見てすでに命数が尽きている。
人生の主要目的として競争をかかげるのは、せいぜい一、二世代ぐらいしか続くものではない。なぜなら、リラックスすることが不可能になっている。
 
これに対する治療法は、理想の中に、健全で、静かな楽しみの果たす役割を認めることにある。

ラッセルの本 幸福論

 

・幸福な人になるためにはいくつかの要因(ブロック)が必要だといいます。
 
それはいくつもの要因(ブロック)が組み合わされたようなもので、遠くにあるようで、あんがい身近にあったり。
 
今回ご紹介する書籍は、
そんな不幸の要因(ブロック)と幸せの要因(ブロック)についてラッセルが語ったものです。
 
ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)