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幸福への招待

幸せを望むすべての方へ言葉の本をお届けします

幸せのブログへようこそ!

”自分の関心を内へ内へとむけるのではなく、
外界へとふりむけてあらゆることに好奇心をいだくこと” (ラッセル)
 
はじめまして

当ブログでは、幸せを望むあなたに

少しでも処方箋となれる”ご本”を紹介いたします。

 
期待に添えられるかわかりませんが、多くの方にぼくと同じ、不幸より幸福になる道を選んでほしいとおもいます。
お付き合いのほど、よろしくお願いいたします。

ラッセル幸福論のまとめ

 
幸福な人になるためにはいくつかの要因(ブロック)が必要だといいます。
 
それはいくつもの要因(ブロック)が組み合わされたようなもので、遠くにあるようで、あんがい身近にあったり。
 
今回ご紹介した書籍は、
そんな不幸の要因(ブロック)と幸せの要因(ブロック)についてラッセルが語ったものです。
 
ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

 

 ”自分の関心を内へ内へとむけるのではなく、

外界へとふりむけてあらゆることに好奇心をいだくこと” (ラッセル)
 
まとめ

 


 

 

生きる勇気とは?

アドラーは、

「人は人生の課題にぶつかったとき、その避けることのできない課題から、回避しようとすることが、勇気を欠いている」 という。

 

アドラーは、勇気は自分自身が勇気がある人からしか、学ぶことはできない という。

 

勇気は、そして臆病も、伝染する。

 

自分が勇気を持つことで、他人を励ますことができる。

 

ここに書かれていることを、覚え込んでも意味はない。

 

その、勇気というのを知ることから始まる。

 

何かを経験して、必ず学べるわけではない。
大事なことは、何を経験するかではなく、経験から何を学ぶかである。

 

失われた勇気。

 

あなたを治すために、二人が何をすればうまくいくと思うかと、アドラーは問う。

 

勇気は共同体感覚の一面であるという個人心理学を知っているものなら、用意に理解できるだろう。

 

勇気づけは、誰もがなんでも成し遂げることができるという個人心理学の確信においてなされる。

 

課題に取り組む前に、そもそも、課題に着手し挑戦しない人が多いことにきがつく。そして、できない理由をあげる。

 

「劣等コンプレックス」である。(見かけの因果律

 

(できないのではなく、課題から目をそむける言い訳をつくる。
道に迷ったとき、人に道をきけない人がいる)

 

自信を失う。

 

アドラーはいう。「私は自分に価値があると思うときにだけ、勇気を持てる」

 

  ライフスタイルを選ぶ時に、周りからの影響はあっても、最終的に選んだのは自分であるということに注目したい。

 

大人が子供を叱る時、ほめる時、大人は子供を自分と対等な存在とは見ていない。

 

自分で判断する力のない子は、大人からみればいい子にはなるが、自分の判断で進んだ適切な行動をしなくなり、大人の顔色をうかがうようになる。

 

あるいは、子供は大人を「敵」と見て、「仲間」とは見なくなる。

 

評価を恐れる

 

アドラーはいう、「ほとんど努力することなしに手に入れた成功は滅びやすい」

 
 

評価されることを恐れるのは、賞罰教育にある。賞賛を得られなければ、適切な行動を止めてしまおう、と考えてしまう。
子供には、「失敗する勇気」を持ってほしいとおもう。
「不完全である勇気」を。

 

この地球の上でくつろぐ人は、人生の快適さだけでなく、不快なことも自分に 属していることを知っている。

 

親の準備とは、自分には人生の課題を解決する力があるということを子供に教えるということである。

 
 

あまりに期待するので容易に人生に失望する

 

自分から何も与えず、他者から与えられるというのは、甘やかされた人の仮想の世界においてのみ起こる。

 

自分をよくみせようとする人。

 

実際には優れていないのに、優れているふりをする人がいる。問題は、他者からの評価を気にかけ、つま先で立つようなことをして成功と優越性を得ようとすること。
本当に優れようとすることを忘れてしまう。
(人よりも優れようとすることは、実は劣等感の裏返しである)

 

課題をこなすことより、その手段(フェチズム)にこだわる人がいる。

 

噺はなし家の場合

 

・伝えたい=語る  
晩年   ・伝えたい=伝え方にこだわる(フェチズム)

 
 

自分の思い通りにしたいと思う人には、きちんと自分の主張をしたほうがいい。
自分が正しいということを証明したい人は、感情的になりやすいが、それをさけては課題はこなせない。本当に間違えていないのか、理解しあうためにも。

 
「人を支配せず、かつ、支配されないことが真に自立するということである」


人に合わせないというのは、人が自分について持っているイメージからだけ合わせないということである。
そうすることで、どれほど人は自由になれることか。

 

自立には勇気がいる     自分の価値を認める
 
人生は失敗からだけ学ぶことができる。

 
(楽天家と悲観主義者の根っこは同じ)
 

  困難があるから課題を回避するのではなく、むしろ、失敗を恐れるゆえに課題を避けるのであり、課題を回避する理由を探している。


   課題に立ち向かうのも、ただ自分のためだけでなく、他人に目を向けることにより、世界を改善するための役割を果たすことができるのである。

 

(本当は、課題に取り組まないために不安という感情を創りだしているのだが)

短所は長所になる

 

私が価値があると思えるのは、私の行動が共同体にとって有益であるときにである

 

人は一人では生きられない。本質において、他者の存在を前提にして個人となる。

 

人間の悩みはすべて対人関係の悩み。わかりやすくいえば、人生の悩みはそれ以外にないようにもみえる。

 

所属感を持つことができれば、世界へと一歩を踏み出すかもしれない。

 
 

病気(死)と向き合う身体の声

 

私=身体    、私<=>身体(病気)    、病気による私の支配

 

同じ、病気という苦しい経験をしても、学ばない人は、何も学ばないでいる。

 

経験はきっかけにすぎず、変わらない人は、何をしても変わらない。

 

共同体感覚は何かと問われたら、
イエスやアドラーのように、たとえ話でしか答えられない。

 

「お前は共同体感覚がない」「劣等感がある」「他人に感心がない」という
ような言い方は、有害以外なんでもない。

 

世の中への贈り物、それは「勇ましい高尚なる生涯」と、市村鑑蔵はいう。

 

明日、地球が滅ぶとしても、私は林檎の苗を植える。ほんとかね

 

「大切なのは、"ただ生きる"でなく、"よく生きる"こと」    ( アドラー)

 

アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か

アドラーに学ぶ―生きる勇気とは何か

 

こちらの書籍は、何より私にとって生きる励みになっています。 

幸福をもたらすもの その四

・努力とあきらめ

 
中庸(ちゅうよう)というのは、おもしろくない教義である。
中庸を守ることが必要である一つの点は、努力とあきらめとのバランスに関してである。
 
幸福は、熟した果実のようにぽとりと口の中に落ちてくるようなものではない。
 
私は本書を「幸福の獲得」とよんだ。
西欧では、あきらめだけでは幸福への道へのひとつにはならない。
自然な欲望が委縮していない人々はすべて、ある権力を手にすることを正常かつ正当な目標としている。
一人は他人の行動を支配する権力を望み、もう一人は、他人の思想を支配する権力を望み、またある人は、他人の感情を左右する権力を望む。
 
賢人は、妨げうる不幸を座視することはしない一方、避けられない不幸に時間と感情を浪費することもしないだろう。
必要な態度は、人事を尽くして天命を待つ、という態度である。
 
あきらめが格段にやさしいケースは、成功の見通しがあるようなケースだ。何度も言うが
 
心配したり、やきもきしたり、いらいらするのは、なんの役にも立たない感情である。
 
教養ある男女はそれぞれ自画像を持っていて、なんであれこの自画像をスポイルするように思われることが生じると、腹を立てるらしい。
自己欺瞞にささえられているときにしか仕事のできない人たちは、自分の職業を続ける前に、耐えるすべを学んでおくほうがいい。
 
害を与えるぐらいなら、何もしないほうがいい。この世の有益な仕事の半分は、有害な仕事と闘うことから成り立っている。
 
 

 幸福な人

 
 
幸福は、一部は外部の環境に、一部は自分自身に依存している。
不幸な人は、不幸な信条をいだくのに対して、幸福な人は幸福な信条をいだく。
 
たいていの人の幸福には、食と住、健康、愛情、仕事の上の成功、そして仲間から尊敬されることである。中には親になることが絶対必要な人もいる。
なおかつ不幸な人は、何か心理的な不適応に陥っている。
外的な事情がはっきりと不幸ではない場合には、人間は、自分の情熱と興味が内へではなく外へ向けられているかぎり、幸福をつかめるはずである。
 
私たちを自己の殻に閉じ込める情念は、恐怖、ねたみ、罪の意識、自己へのあわれみ、および自画自賛である。私たちの欲望は、自分自身に集中している。人があんなに事実を認めるのをいやがり、あんなに神話の温かい衣にくるまっていたがる理由は、主に恐怖である。
 
神話の衣の温かさに慣れっこになった人は
風の冷たさが格段に身にしみる
 
「幸福な人とは、客観的な生き方をし、自由な愛情と広い興味を持っている人である」
 
自分の殻に閉じこもってしまうために不幸な人は、自分の不幸を考えつづけているかぎり、依然として自己中心的であり、ために、この悪循環からのがれることはできない。悪循環からのがれたいならば、本物の興味によるほかはない。
 
本当にあなたの興味をかき立てるもののみが、あなたの役に立つのである。
 
必要なのは、自己否定ではなく、興味を外へ向けること。
 
私は、本書を快楽主義者として、言い換えれば、幸福を善と見る人間として書いた。
私たちは、愛する人びとの幸福を願うべきである。しかし、私たち自身の幸福と引き換えであってはならない。
 
すべての不幸は、ある種の分裂あるいは統合の欠如に起因するのである。
 
幸福な人とは、自分の人格が内部で分裂してもいないし、世間と対立してもいない。
そのような人は、自分は宇宙の市民だと感じ、宇宙が差し出すスぺクタルや、宇宙が与える喜びを存分にエンジョイする。
 
また、自分のあとにくる子孫と自分とは別個の存在だとは感じないので、死を思って悩むこともない。このように、生命の流れと深く本能的に結合しているところに、最も大きな歓喜が見いだされるであろう。
 

 

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

ラッセル幸福論 (岩波文庫)

 

 

幸福をもたらすもの その三

・仕事
 
余暇を知的につぶすことができることは、文明の最後の産物であって、現在、このレベルに達している人はほとんどいない。仕事をしていれば、休日になったときにそれがずっと楽しいものになる。
たいていの仕事は、成功は収入によって測られる。現在の資本主義社会がつづくかぎり、これは避けがたいこと。
(そのあいだ夫は、妻のしていることをほとんど何ひとつみていないのだ)
 
仕事を面白くする主な要素は、二つある。一つは技術を行使すること、もうひとつは建設である。
並みはずれた技術を身につけた人はだれでも、もうこれ以上は上手になれないというところまで、その技術を行使することを楽しむものである。
 
建設においては、最初の状態はかなりでたらめであるが、最後の状態は一つの目的を具体化している。(破壊においてはちょうどその逆である)しばしば人間は、建設を少しも念頭に置かずに破壊を目的とする活動に従事することがある。自分は新しく建設するために古いものを一掃していると、信じこもうとする。しかし、次にどんなものを建設しようとしているのかと尋ねることによって、その口実の仮面をはぎ取ることができる。
彼らは、通例自分では気づいていないが、憎しみに駆られて行動している。
同時に、重要な建設的な仕事をする機会ほど、憎しみの習慣を治してくれそうなものは、まずほかにはない。
 
荒野をバラのように花開かせた人は、最も明白な形の一つで幸福をエンジョイする。
偉大な芸術を生み出す力は、しばしば気質的な不幸と結びついている。科学者が気質的に不幸であることは、芸術家の場合よりもずっと少ない。
非常に多くの人びとが、才能を独立して発揮する機会が見つからなくて、俗物たちが牛耳っている富裕な法人に余儀なく雇われるはめになり、俗物たちに自ら有害なナンセンスだと思っている記事を書くように強要されることである。
 
食べていくために自ら有害だと信じている目的におのれの技術をひさいでいる、そういう仕事では、真の満足は得られない。
自尊心がなければ、真の幸福はまず不可能である。
自分の仕事を恥じているような人間は、自尊心を持つことは到底できない。
 
目的だけでは、人生を幸福にするのに十分ではない。
 
・私心のない興味
 
不幸や疲れや神経過労の原因のひとつは、自分の生活において実際的な重要性のないものには何事にせよ、興味を持つことができないことである。そうした事柄には、多少の不安と多少の心配の要素が含まれている。
 
重要な決定をする前に、「一晩寝て考えてみる」ことが必要だと感じる人たちは、まぎれもなく正しい。
私心のない興味は、気晴らしとして重要であるだけでなく、釣り合いの感覚を保つのに役立つ。
私たちは、この世にそう長いこといるわけではない。
 
狂信の本質は、望ましいことを一つか二つおぼえていて、他のことはいっさい忘れてしまい、この一つか二つのことを追求するにあたっては、他の種類の害がたまたま生じても大したことじゃない、と考えることである。
予防薬としては、宇宙における人間の生命と位置とを大きく認識することにまさるものはない。
 
現代の高等教育の欠点の一つは、ある種の技術を獲得する訓練にあまりにも傾きすぎてしまったこと。
私は、古い伝統的な宗教の代わりに、若い人たちが過去を生き生きと意識するようにしてやりたい。
 
この上もなく幸福な人生においてさえ、物事がうまくいかないときがある。そういう時期に、心配の原因以外の何かに興味を寄せる能力があれば、測り知れない恩恵になる。
どんなにつまらないことでもいい、何か気晴らしを探すべきであり、ただし、その気晴らしは、それ自体有害なものであったり、人を堕落させるようなものであってはならない。泥酔とか麻薬とかが含まれている。
正しい方法は、思考を麻痺させることではなく、思考を新しいチャンネルに切り替えること、あるいは、現在の不幸から隔ったチャンネルに切り替えることである。
悲しみに満たされてしまったとき、思考の切り替えはむずかしい。できるだけ幸福なときに、ある程度広い興味を養っておく
賢明に幸福を追求する人は、自分の根底をなしている中心的な興味のほかに、いくつかの副次的な興味を持つように心がけるだろう。

幸福をもたらすもの その二

・愛情
 
愛されているという感情は、ほかの何ものにもまして熱意を促進する。
並みはずれた親切な行為によって、愛情を得るために努力するものは、まず成功の見込みはない。
その動機は、受益者にやすやすと見破られるからだし、また、人間の性質というものは、愛情をいちばん要求しないように思われる人にいちばん進んで与える、というふうなしくみになっているからである。
親切な行為によって愛情をあがなおうと努める人は、人間の忘恩を経験して幻滅することになる。
 
安心感を生み出すのは、人から受ける愛情であって、人に与える愛情ではない。
 
明らかに、愛情にはなにがしかの保護的な要素がはいってくる。
 
往来、男性が臆病な女性を好んできた理由の一つは、人の不安をかきたてることで、もっと完璧に支配する力を得たい、
男性は女性を守ることによって女性を所有するに至ったからだ。
女性は男性をその性格ゆえに愛する傾向があるのに対して、男性は女性を外見のゆえに愛する傾向がある。
(男性はよい性格に必要な手段を理解し追求してはいない)
 
真に価値ある性的な関係は、ただひとつ、互いに遠慮することなく、双方の全人格が融合して、一つの新しい総合的な人格になるような関係である。愛における用心深さは、ことによると、幸福にとって致命的なものであるかもしれない。
 
・家族
 
良心的でない母親は、子供にあまりにも多くを求めるようになる。(自分が断念しなければならなくなった喜びの埋め合わせををわが子に求める)良心的な母親は、自分の自然な愛情を抑え、そして内気になる。
どちらの場合にも、単純で自然な幸福は存在しない。
 
白人種の作り出した文明は、男女ともに、文明を吸収すればするほど不妊になる。つまり、最も文明化した人間は最も不妊であり、最も文明化していない人間は多産である。
こういう特徴を持つ文明が不安定であることは、明らかである。
国家としては、貧乏な人たちを無知にしておくように努めるのが精いっぱいだ。
だから、白人種のように滅びたくなければ、親になることがふたたび両親に幸福をもたらしうるようにしなければならない。
 
マクダフは、妻よりも子供のほうを愛している。
旧約聖書では、男女ともに、子孫を残すことに情熱的な関心を持っている。中国や日本では、この態度は現代に至るまで存続している。
 
祖先崇拝は、人びとが自分の家族の存続に寄せている関心の反応にほかならないのである。
 
親としての幸福は私の味わったほかのどんな幸福よりも大きいと思っている。
(事情により男女がこの望みを断念せざるおえない場合、原因不明の不満と無気力とを生み出している)
 
後世に刻印を残すような偉大ですばらしい業績をあげられる人は、自分の仕事を通してこの感情を満足させられる。特別な才能のない男女にとっては、子供を通してそうするよりほかに先の道はない。

第二部 幸福をもたらすもの

幸福はそれでも可能か?

今度は幸福な人間を考察する、楽しい仕事にとりかかる。
幸福には二種類ある。一つの種類はどんな人間にも得られるが、もう一つは読み書きのできる人にしか得られないもの。
 
私は、子供のころ、幸福ではちきれそうなひとりの男を知っている。
彼の幸福は、体力に恵まれ、仕事が十分にあり、岩石という形のなんとか克服できる障害に打ち勝つことに基づいていた。
 
彼が喜びを得たのは、自分の技術を行使することに生き生きとした愉悦をおぼえたからであった。
人間が狩猟によって食べ物を得ていたころは、仕事はひとつの喜びであった。
 
自己を過小評価する人はいつも成功したことに驚くのに対し、自己を過大評価する人は、いつも失敗したことに驚いている。
うぬぼれないのは賢明であるが、かといって、あまりに控えめで、やる気がないのもよろしくない。
 
高等教育を受けた成員中で、今日も、最も幸福なのは科学者である。
科学者が仕事の上で幸福なのは、その重要性は、彼ら自身にも一般人にもつゆ疑われていないからである。
この点で科学者は、芸術家よりも幸福である。
 
画家たちは、絶えず自己主張をしなければならない生活において、本当に幸福になれる人は皆無に等しい。
軽蔑されるか卑屈になるかのどちらかを選ばなければならない、という立場に置かれるだろう。
現代の億万長者は、芸術家の仕事は自分の仕事に劣らず重要であるとは夢にも思わない。
 
仲間とつきあい、他人と協力することが、普通の人間の幸福における不可欠の要素である。
 
(ささやかな)主義主張を信じることは幸福の源泉である。
私の知っている人びとで、イギリス人はイスラエルの十支族であると信じていた人たちは、ほとんど例外なく幸福だったし、一方、イギリス人はエフライムとマナセの支族にほかならないと信じてた人たちときたら、その至福には際限がなかった。
野球ファンの熱狂的な喜びを考えてみるがいい。
 
けれども、道楽や趣味は、多くの場合、現実からの逃避になっている。
貪欲で、独占力の強い、つねに強い反応を求める形は、まま不幸の源になる。
趣味は、すべて本物でなければならない。
 
たくさんの人びとが自発的に、努力しないで好きになれることは、個人の幸福の最大のものであるかもしれない。
 
幸福の秘訣は、こういうことだ。
 
あなたの趣味をできるかぎり幅広くせよ。そして、あなたの興味を惹く人や物に対する反応を敵意あるものではなく、できるかぎり友好的なものにせよ。
 
・熱意
 
幻滅はおしなべて一種の病気である。できるだけ早めに治療するべきであって
人間、関心を寄せるものが多ければ多いほど、ますます幸福になるチャンスが多くなり、ますます運命に左右されることが少なくなる。
私たちはみんな、内向的な人間の病気にかかりやすい。
外界からの材料がなければ無力であり、精神は、自力で材料をつかまねばならない。
 
何かに興味をおぼえた人は、興味をおぼえない人よりも、よりよく世界に適応しているのである。
 
古代人は、中庸(ちゅうよう)をもって根本的な美徳のひとつをみなしていた。フランス革命の影響で、この考え方は多くの人に見捨てられ、激しい情熱が賛美されるようになったが、活動の間にバランスがなければ、どれひとつとして、その他の活動ができなくなるまでに推しすすめられてはならない。趣味や欲望は、おしなべて人生の全般的なわくの中に納められるもの。
 
ギリシア流の中庸の方式は、昼間働いている間じゅう、夜するゲームのことを待ちわびている人は、幸福であった。
一日中チェスをするために仕事をおっぽり出す人は、中庸の徳を失っているのである。
(近代資本主義の成り立ちと真逆のような話である)
 
一つの欲望が度を越して、他の欲望をすべて犠牲にしてしまうような人は、根深い悩みをかかえ、亡霊からのがれようとしている人である。
伝説上の中国人が言ったように「私は、飲むために飲んだのではない。酔うために飲むのだ」
(目的より手段・フェチをえらぶ、とかく救いがたい存在など)
 
無謀な危険を冒す人については、何というべきであろうか。
文明社会に見られる熱意の喪失は、大部分、私たちの生き方にとって欠かすことのできない自由を制限されていることによる。
 
人は、健康とありあまるほどのエネルギーが必要である。運がよければ、それ自体面白いと思えるような仕事を持つことである。
古今東西の女性に関するかぎり、彼女たちは、ある抑圧制度のなんとも痛ましい犠牲者なのであるが、その制度の邪悪さに自らは気づいていない。不寛容なものはすべて善に見え、寛容なものは悪に見えている。さいわい、このタイプの女性は減りつつある。
 
男性にとっても、また女性にとっても、熱意こそは、幸福と健康の秘訣である。